第58回 セブでの失敗
佐藤治生の家は、阪急「富田」駅南口前に位置している。彼は、1階で生業を営み、3階に居住している。2階はレンタル・スペースなのだが、今は物置と化している。
「富田」駅を北へ徒歩3,4分でJR「摂津富田」駅へ着く。そのメイン・ストリート沿いにマクドナルド、ドトール・コーヒー。それに、喫茶店が二軒ある。
毎朝6時半、日課のNHK「ラジオ体操」が終わってからの小一時間。
彼にとっては至福の時間が訪れる。特に寒い冬場、火の気のない3階の自室で過ごすよりも、何れかの店で、朝刊に目を通す。一刻も早く、記事に接したい時には、大抵はマクドナルドへ行く。他の店よりも早く、6時から開けている。治生の購読紙以外の日経やスポーツ紙(二紙)も、読めていい。
しかしながら、8時には帰途に着く。彼の生業、鍼灸整骨院の開院は8時半。シーツ交換や清掃等、雑用が待っている。スタッフ出勤前の日課である。
3月21日(土)、治生はマックへ行った。
前日、侍ジャパンが宿敵韓国に快勝したからであった。8回にやっと勝ち越した由。それを阪急「清荒神」駅近くで知ったのは、長い行程を歩き終えた昼過ぎのことだった。
20日の「春分の日」。治生は、北摂ビジネスライブ<ウォーキング部会>のメンバー7名と、中山寺から清荒神へ歩を運んだ。糖尿病対策でもあった。
治生がこの会に入ったのは、ビジネス戦士をリタイアして、悠々自適の老後を送っている会員諸氏に期待してのことだった。一人でも二人でも、フィリピン日系人の窮状に心を寄せて、日系人会訪問へ同行してくれる有志が居るのではないか?との目論見だった。
第二次大戦時、フィリピンへ上陸した日本軍は、通訳、道案内として日系人を徴用。百万人からの殺戮が行われた結果、利敵行為を働いたトガで日系人の財産はフィリピン政府によって没収。
日系人だとわかると狙撃されたり、(就職)差別があるので、日本からの戸籍謄抄本を焼却廃棄。
ために今日では、合法的に来日できないというのが、フィリピン日系人の置かれた立場だ。現地では容易に仕事が見つからないので、戸籍復活の後、日本で就労というのが彼らの切なる願いである。
ところで、中国残留孤児については、日本のマスコミはたびたび取り上げるが、フィリピン残留日系人に関しては、滅多に紹介されることはない。
数年前に、NHK衛星TVでの放映。ご覧になった方は驚かれたことと思うが、一日三度満足に食することができない同胞がいる。或は、主食は確保できても副食までは賄えず、ふりかけを土産に期待する日系人もいる。
思えば、新聞を細部まで読む習慣が、治生にたびたび幸運をもたらしてきた。総理府「青年の船」大阪府代表として、東南アジア6カ国へ渡航し得たのは、新聞の記事が機縁になった。目に止まったから、応募し得たのである。大阪府庁で、英語、英会話、一般教養、作文、面接の試験に臨んだことを想起する。
天野恵一氏が「ダバオ国の末裔たち」(風媒社)で、日本ノンフィクション新人賞を受賞したのは、1990年。これも、日刊紙数社の朝刊「書評欄」で、佐藤治生は知り得ていた。
ダバオ在住の天野氏が、今は故人になられた萩尾氏(二世)の人生を克明に辿ったこの書によって、治生のライフ・ワーク(フィリピンでのボランティア活動)は始められた。萩尾氏に会いたくて、治生はダバオへ彼を尋ねたのだ。
「ハポン」(大野俊著、第三書館)や、「フィリピン残留日系人」(鈴木賢二著、草の根出版会)も好著だ。
最近では、A新聞の「窓」論説委員会からの囲み記事が目に止まった。
<国籍法の改正>について記されている。
その要旨は、日本人の父と外国人の母との間に生まれた子供は、結婚していなくても、父親の認知さえあれば、日本国籍が得られるようになる。最高裁判所は今年(2008年)6月、結婚によって区別する国籍法の規定が法の下の平等に反すると違憲判決を出した。改正はその判決を受けたものだ。
これを読んで、治生の脳裏に浜田志郎が甦った。(妻子ともども、首尾よく
来日出来れば、空いている2階のレンタル・スペースに居住すればいい。むろん、無償提供だ。)そんなふうに佐藤治生は考えていた。
そのためには、セブの日本領事館へ、彼らは「結婚」の届け出をしなければならない。浜田志郎の<戸籍謄本>が、必要になる。
治生は浜田の郷里、雲仙市役所へ電話をかけて<それ>の送付を要請したが、本人からの委任状の提出を求められ、一旦は頓挫した。結局、治生は高槻市役所に奉職している学友を動かすしかスベはなく、やっと<それ>を入手し得たものの、浜田は送還されて帰って来た。
はや もう3年たった。フィリピンはセブの今野喜六から、治生に電話が入ってから……。
浜田志郎(長崎県出身の56歳)が投獄され、35万円入用という…………。6年間の不法滞在の罰金(30万円)+帰国便(5万円)とで、35万円送金されたし!というのだった。
今野(61歳)は、セブで、サリ・サリ・ストアを営んでいて、3人のジャピーノ(日本人男性と、フィリピン人女性との間に生まれた子供)の父親だ。浜田の紹介で、佐藤治生は面識を得た。
治生は、今野が出せばいいお金だと思ったのだが、「回収できるメドが立たないから、出せない。」と言う。治生も一瞬、逡巡したが、浜田の妻子が気の毒で、PNB BANK(フィリピン・ナショナル銀行)の今野の口座へ送金した。PNB BANKの窓口は「みずほ銀行」神谷町(東京都)支店で、これを、突き止めるだけでも、一苦労だった。
金融の中心地、北浜界隈で渉猟したが、大阪にはPNB BANKの窓口は、なかったのだ。
佐藤治生の手元に、2005年6月20日付けの手紙がある。セブの浜田志郎からの書簡である。━━━━━佐藤院長、お元気ですか。私しは、CEBUの浜田です。昨年8月、今年1月に、院長にお世話になりました。
本当に、佐藤院長に対して、私しは、命の恩人だと思っています。約6年間、CEBUに居住してから、院長だけです。何人かの日本人の人が来られましたけど、金銭的にしてもらったのは、院長だけです。本当に助けてもらいました。院長が1月3日の日に来られた時は、1円の金もありませんでした。本当に私しにとって大金です。本当に院長に対して、感謝しています。一生忘れないと思います。親戚の方から送金してもらうとの事で、話ししましたが、5ヶ月たった今も返事がありません。
落ちる所まで落ちた人間に対しては、関係ないみたいです。今は、連絡とりたいのですけど、電話代がないため、連絡できません。手紙も2回出しましたけど、何の返事もありません。家の方も、誰れも住んでいません。子供も前妻の所に行っているとの事で、子供にも連絡とれません。本当に情けないです。ここでは、仕事するにしても何にもない、働くにしても日本人を雇う所もないし、色々考えました。ONARIさんにも相談しましたが、ただ日本に帰ることだけしか言われません。
今は、何んでもできます。2~3回死んだ人間です。院長助けて下さい。佐藤院長、本当に迷惑だと思います。この年になって、こんなことになるとは、思ってもいませんでした。今は、日本に帰れるとは思ってもいません。毎日、毎日、3回の食事もとれません。院長が1月に来られた時に、夜、おかず持って来られた時、本当に涙がでました。院長の気持、本当に有難いと思っています。昨年の8月にお
会いして、色々お世話してもらい、本当に感謝しています。
佐藤院長に死ぬ思いで、手紙書いています。今は、0からやるつもりでいます。院長助けて下さい。必ず立ち直ってみせます。今は、連絡は手紙だけです。電話も故障で、そのままです。佐藤院長、本当に迷惑かけて、申し訳ありません。
乱文乱筆にて
浜田は、セブの日系人会トップのべン・大成(二世)の紹介だった。5年前の事。困窮邦人が、近くにいるとの事で、治生が浜田の家へ行ってみて驚いたのは、4年間家賃滞納の上、GASを止められ、七輪で煮炊きをしていたことだった。
当面は、大成の助力で、パン(食べ物)をもらっていた。フィリピーナの彼女と2人のジャピーノ。哀れで、初回は、インスタント・ラーメンやチョコレートに、1万円。治生は置かざるを得なかった。
治生は、フィリピン日系人会へのボランティアで、毎年2回、盆休みと年末年始に、訪比している。その後は、訪比の都度、8000ペソ(2万円)置かざるを得なかった。帰国したいものの、兄や親戚も送金してくれず、中学校時代の担任、伊東一也先生にも浜田は送金を依頼していた。みんな不首尾で、治生にお鉢がまわってきた。
浜田が、治生へ電話連絡を依頼したリストがある。
力になってくれそうな友人知己!と云われて、治生は長崎へ電話を試みた。送金までしてあげようという知人は皆無。実兄は受話器に出ず、奥さんの応答は途中で「ガチャン!」とりつく島がなかったのである。
長崎へ来ていたフィリピーナとパブで知り合い、意気投合。
彼女を追いかけて、セブまで来て同棲。ジャピーノふたりをもうけている浜田への同情の声は全く聞かれなかった。
そして、2006年の12月28日、浜田は、強制送還されてきた。
夜、整骨院の仕事が終わって、治生が外へ出てみたら、浜田が佇んでいた。
当然、着のみ着たまま、夏のスタイルで、日本円もない。治生は彼を、高槻のフィリピン・パブ「グラバー亭」や、KTVアスレティッククラブへ連れて行き、英気を養ってもらったりもした。映画館へも連れて行った。衣食住の全面に亘って、佐藤の助力が必要だったことは、言うまでもない。
ともあれ、履歴書用紙を買うところから、治生の支援が必要だった。しかしながら自衛隊出身という事が買われ、最初の面接で、警備会社への就職が決まった。治生の目には、椿事に映った。
ところで、相手が頼みもしないのに(ああもしてやろう、こうもしてやろう)お節介の過ぎるところが、治生の欠点だ。
仕事が終わって夜、頼まれもしないのに、浜田の弁当(翌日のための)を買いにバイクを走らせたところ、覆面ポリスに呼び止められ、「停止線で止まらなかった!」と云われ、治生は罰金を払ったりもした。
長年のセブ暮らし、働くことのできなかった浜田は、多大のストレスから胃潰瘍を患っていて、仕事のかたわら、胃腸科病院へも通院。平均、朝6時頃出かけて夜8時頃、帰宅という日常だった。
治生が頼めることは、出勤前のゴミ出しくらい。しかしながら、それすらやってはもらえなかった。翌朝の出勤が早まった場合、前夜の申告を依頼したが、浜田は黙って出かけてしまうこともたびたびで、治生が夜買ってきた(職場へ携行する)弁当(昼飯)すら忘れて出勤することもしばしばだった。ともかく、同居していて治生のストレスは募る一方だった。
そして、ゴールデン・ウィーク(4月29日)に、郷里の長崎県へ帰り「兄に会ってくる!」と行ったっきりで、浜田は佐藤家へは顔を出さなくなった。
警備会社に「寮」があると浜田が言うので、長崎から帰って来たら、入寮して欲しいと治生は求めたのだ。ところが、現実には寮などなかった。
浜田が佐藤の家に寄りつかなくなってから、治生は気づいた。浜田は無断で勝手に物品を使ったり、持ち出していた。昔で云えば「富山のクスリ売り」。定期的にやって来る置き薬、その「薬箱」の中から、いくつものクスリが消えていた。治生がまだ観ていないビデオ(20数本)もなくなっていた。
それでも治生は、6月に夏物の衣類を持って浜田の会社へ行った。
浜田から治生へは何の反応もなかったのに、10月には、冬物を持って治生は再び会社へ赴いた。ところが、9月に浜田は会社を辞めていた。
今は長崎で、癌を患っている兄の看病とか。佐藤治生にはナシのツブテ。
当然、治生へは一円の支払いもない。警備会社での俸給は16万円だった。
毎月1万円ずつ返済してもらおうと思ったものの、治生は言い出せないままで終わった。セブの妻子には、半年間でつごう16万円送金したとか。お盆休みの訪比で治生は知り得た。フィリピーナ・ワイフの口から聞いたのだ。
ともあれ、「世の中で、一番尊いことは、人のために奉仕して、決して恩に着せぬこと」(福沢諭吉)。治生は、この言葉を肝に銘じている。